●韓青の結成(〜1960年)
韓青の結成は、1960年4月、国内の青年学生が立ち上がり、不正腐敗をほしいままにしてきた李承晩独裁政
権を退陣させた4・19革命から数ヶ月後でした。4月革命の喚声は在日韓国人青年に強烈な衝撃と感動を与え、
4月革命の勝利は民主祖国の建設・祖国統一の実現という輝かしい将来に対する希望と確信を与えました。その
ような中で迎えた1960年10月9日、韓青は、李承晩政権の御用団体として結成され、在日韓国人青年の純
粋な愛国心と正義感の発露を妨げてきた大韓青年団を改編し、「権力にこびない、金力に誘惑されない、暴力に
屈しない真理と正義にいきる青年運動」というスローガンを掲げて誕生しました。
●5・16クーデター勢力との対決(1961年)
1961年5月16日、朴正煕率いる軍部が全権掌握しました。5・16軍事クーデターが起こったその日、
当時の民団(在日本大韓民国民団)執行部はただちにクーデター支持声明を発表しました。韓青は、民政移管要求
を発表し4月革命の完遂をめざしたが、本国独裁政権に従属していた民団執行部は、韓青に対して「韓青には秘
密結社がある」などの謀略宣伝を組織し、暴力団を動員して韓青中央本部を襲撃するという暴挙をはたらいた。
さらに郭東儀委員長に対して停権処分という制裁措置を加えました。このような重大な試練に直面した韓青は、
愛国青年の力量を総結集し、民団内の民主力量を構築するための闘いに全力を傾注していくことになります。
●韓日条約闘争(1960年代前期)
5・16軍事クーデターにより政権の座を強奪した朴正煕軍事独裁政権は1965年、国内各界各層の強力な反
対闘争を押しきって韓日条約締結を強行しました。韓青は売族的な韓日条約の締結そのものに反対する観点をも
ちながら、「韓日法的地位協定」に標的をしぼり、民団内の良心勢力とともに、法的地域要求貫徹闘争を一大大
衆運動として展開しました。これに対し、朴政権に従属した民団執行部は、法的地位要求貫徹闘争を韓日条約早
期調印の障害と見なして、韓青をはじめとする民団内民主勢力を敵視し厳しい弾圧を加えました。
●権益擁護闘争(1960年代後期)
韓日条約締結強行によって、日帝植民地支配の歴史的責任を無視して、同胞社会に分裂を持ち込み、在日同胞に
強制退去を含む不安定な法的地位を強要した日本政府は、ひき続き在日同胞の民族教育を抹殺するため「外国人
学校法案」制定を強行しようとしました。朴政権は、『反共実利論』(民団系の学校よりも総連系の学校がたくさ
んつぶれるから韓国政府の利益となる)という売族的な主張を掲げ、法案支持の立場をとったのです。韓青は民
団内の民主勢力とともに民族教育死守のために強力な反対闘争を展開し、法案を廃案に追い込みました。
また日本政府は、在日同胞の政治活動を全面封鎖しようとして「出入国管理法案」制定策動にのりだしました。
これに対して韓青は、民団内の良心勢力とともに総力を挙げた闘争を展開して、数万名の民団同胞の決起で、同
法案も廃案に追い込んだのです。
●民団民主化闘争(1970年代初)
1960年5月、民団は「第三宣言」を発表して、在日同胞の権益を守ることを最優先し、本国政府の政策に対
しては是々非々で望むという民団組織の自主化を明らかにしました。ところが、1961年5月、軍事クーデタ
ーによって朴正煕独裁政権が登場し、民団に対する不当な干渉が始まりました。こうして、民団の自主性を守る
ために民団民主化闘争が始まったのです。しかし1971年、民団内において民主対従属の対立が深化しまし
た。それまでの闘争で力量を拡大してきた韓青など民団内の民主勢力に対して民団御用執行部はファッショ弾圧
を全面化させ、民主人士・機関・組織に対して除名・停権・直轄などの処分を乱発しました。韓青に対しては、
1972年7月7日、民団の傘下団体認定取り消し処分を不法に強行し、民団内の民主力量を一掃しようとする
暴挙に出ました。こうして韓青は、国内独裁政権に対する反独裁民主化闘争を全面的に展開するにいたったのです。
●7・4南北共同声明支持集会(1972年)
1972年7月4日、南北当局により発表された歴史的な「7・4南北共同声明」に対し、韓青は、祖国統一3
大原則(自主・平和・民族大団結)を熱烈に支持しながら、祖国統一闘争を果敢に推進するため朝青(在日本朝
鮮青年同盟)との共同大会を全国各地で開催し、在日同胞青年の統一熱望を結集しました。この闘いは多くの在
日同胞に祖国統一への希望と確信を与え、祖国統一3大原則を広く在日同胞社会に浸透させた先駆的な南北合作
闘争でありました。
●反独裁民主化闘争(1970年代)
韓青は、1973年8月13日、民団自主守護委員会(自主委−旧有懇)、民団東京・婦人会など民団内民主
諸勢力とともに、韓国民主回復統一促進国民会議日本本部(韓民統)の結成に参画し、反独裁民主化闘争を本格
的に展開するにいたりました。韓民統結成直前に引き起こされた金大中氏拉致事件糾弾・真相究明・現状回復要
求闘争、民青学連決起連帯闘争、金芝河の『チノギ』『苦行』の全国上演運動、民主救国宣言支持100万名署
名運動、韓国労働運動連帯闘争、政治犯救援運動など、70年代をつらぬいて全分野において闘われてきた反独
裁民主化闘争は数えきれません。
●反外勢民族自主化・反独裁民主化闘争(1980年〜80年代中盤)
朴独裁政権崩壊後、民主化への熱望が沸騰する中、1980年5月18日、米国の後押しを受けた全斗煥ひきい
る新軍部クーデター勢力は、民主化熱望を踏みにじり、光州大虐殺の血の海の中で政権の座を強奪しました。
光州蜂起に連帯し虐殺を糾弾する爆発的な闘争は、のち日本全国をおおう金大中氏救出運動へと連続して引き
継がれ、ついに全斗煥政権の金大中氏抹殺陰謀を破綻させました。この80年の闘いは日本の社会運動史上にも
その巨大な足跡を残す歴史的闘争であったが、その原動力は70年代反独裁民主化闘争の蓄積と担保を総動員し
た韓民統・韓青をはじめとした在日民族民主勢力の闘いでもありました。まさにこの闘いは、80年代闘争の出
発点であると同時に、70年代反独裁民主化闘争の集大成でありました。
光州大虐殺以降、反米の無風地帯といわれた南の地に燃え広がった反米闘争の烽火、韓国社会変革運動の主力
部隊としての労働者・農民など基層民衆運動の本格的な登場、レーガン・中曽根・全斗煥による韓米日軍事同盟
強化策動を痛打した反戦反核闘争など、熾烈な理論闘争と果敢な実践闘争を経て急速に成長・発展した韓国民衆
の闘いはついに87年6月民衆抗争へと結実しました。
●祖国統一闘争の全面展開(1989年〜2000年)
1989年4月、文益煥(ムン・イッカン)牧師が北韓を訪問して金日成主席と統一方案について協議し、合意す
るという画期的なできごとが起こりました。7月には林秀卿(イム・スギョン)さんが韓国の全国大学生代表者協
議会(全大協、現:韓総連)を代表してピョンヤン青年学生祝典に参加し、板門店を通って韓国に戻るという快
挙をなしとげました。こうした状況の下で、韓国の全国民族民主運動連合(全民連)は「韓半島の平和と統一のた
めの汎民族大会」の開催を北と海外同胞に呼びかけました。韓青は在日民族民主勢力とともにこれに積極的に応
え、海外韓国同胞団体に広く呼びかけて汎民族大会を推進したのです。汎民族大会開催の準備段階に入った韓青
は、日本地域推進本部の一員として第1〜3次実務会談への代表派遣、全国の主要都市における「汎民族大会を
成功させるための集い」開催など積極的な活動を繰り広げ、90年7月には日本、ヨーロッパ、米州、カナダ、
中国、オーストラリアから海外同胞代表が結集し「汎民族大会支持−海外韓国同胞大会」を開催しました。そし
てついに8月15日、板門店で汎民族大会が盛大に開催されました。この成果にもとづいて11月、ベルリンで
南北海外の代表が集まり、統一運動を挙族的に推進する機構として祖国統一汎民族連合(汎民連)が発足したの
です。この汎民連の結成は、盧泰愚軍事独裁政権でさえ北との交渉を行わざるを得なくし、ついには91年12
月「南北の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」を採択させ、統一機運を一気に高めるのに大きく寄
与しました。また91年4月には全大協が「統一方案合意と祖国の平和、民族大団結のための南・北・海外同胞
青年学生統一大祝典」を提唱し、韓青はその実現に向けて全力で臨みました。全大協から派遣された2名の代表
とともに、北・海外が何度も実務会談を経て91年8月15日に板門店でその大会は実現されるにいたりました。
8月に開催されたこの大会は、決議文と合意文が採択されるにとどまらず、汎民連の先鋒隊として祖国統一汎
民族青年学生連合(汎青学連)を結成する決意を内外に誇示しました。そしてついに92年8月15日、南・北・
海外の完全なる3者合意のもとで、汎民連の誇らしい先鋒隊−汎青学連の結成が宣布されました。汎青学連は、
規約・綱領の採択にとどまらず、議長団・中央委員体制まで整えた完全な姿で登場し、90年代統一実現に向け
た青年学生の大行進をはじめるようになったのです。そして96年には汎青学連結成史上はじめて「第1回汎青
学連総会」を実現させ、連邦制統一方案を汎青学連の統一方案として可決しました。汎民連・汎青学連こそは、
長い間の国内外統一運動がつくりだした貴重な成果であり、民族大団結の象徴なのです
●南北共同宣言以降の韓青(2000年〜現在)
2000年6月15日、韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日国防委員長が歴史的な握手を交わし、南北共同宣言を
発表しました。これは、半世紀を越える分断を克服する大きな一歩となったのです。
韓青はこれを受けていち早く南北首脳会談を支持する運動に立ち上がりました。各地域で開催している「統一
マダン」の場において、南北共同宣言の意義を広報する演劇やマダン劇、アンサンブルをおこない、また、これ
まで別々に活動していた北系、南系の民族諸団体との和合を果たし、地域単位で協議会を結成、現在も意欲的に
合同行事を開催し、民族の輪を広げ続けています。また、2004年には韓統連故国訪問団の一員として、数十年ぶりに韓国に訪問。実質上の自由往来権獲得に
向けた大きな成果を残しました。韓青の歴史は、祖国の民主化と統一の闘いの歴史であり、その勝利と栄光に向かって一途に前進してきた愛国
愛族の歴史です。これからも祖国のため、民族のために力強く運動を展開していくことでしょう。
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